第二章

「朧月夜:夢想」

高校二年春から夏にかけて・・・・・とある放課後

その日藤崎詩織は自分が所属している吹奏楽部の顧問の先生に呼ばれていた。
呼ばれた理由も分からず詩織は不思議と駆け足になっていたが、
職員室のドアをノックすると顧問の先生は優しく出迎えた。
「おお、藤崎君か。うん、こっちだ、こっちだ」先生の言葉に
詩織は頷きそのまま先生の前まで歩いていく。

「先生、何の御用でしょうか?」先生の前で詩織は止まった。
「ご苦労さんなんだが・・・・・・この間の演奏会は見事だったよ。
まさかここまで君が成長しているとは思わなかった」
顧問の先生は他の先生から手渡された急須からお茶を湯のみに
注ぐと少し口に含む。
「ありがとうございます、先生」詩織は嬉しそうに挨拶をする。
「最初演奏会を企画していた片桐君が急病で出来ないと分かった時、
君が代理を務めていなかったらどうなっていたか・・・・
本当君がフルートの演奏でその場をしのいでくれたから舞台方の先方も偉く喜んで
いてね・・・・」延々と自慢話をしようとした先生の口を封じるかのように
詩織は話しかけた。
「それで・・・・先生、何の御用でしょうか?」
「ふむ。それでね、こんなものが来ているんだ」
顧問の先生は机の引き出しから一枚の紙を取り出した。
「これは・・・・・?」詩織は手にとって読み始めた。
すぐに詩織の表情が硬くなる。
「先生これは一体何ですか!」
「見ての通りだが」顧問の先生はゆっくりとお茶を啜る。

そこに書いてあったのは留学の推薦だった。

「ちょうどあの時ね、あの演奏会に私の古い知己で招待した外国の演奏家がいてね・・・
一目見て君を気に入ってね。そこで君を是非外国、しかもフランスの国立音楽大学への
留学を勧めてくれと頼まれたんだ。どうだろうか、君の音楽の才能はまだ荒削りだが
魅力がある。日本の音楽大学へ進学するのも良いが外国の大学を受け、
そこで才能を伸ばすのも良いと思うんだ」
「えっ・・・・・・・・・でも・・・・・・・・・・・」初めて詩織は戸惑った。
こんな話は聞いていない。詩織は改めて先生の顔をみるが、
顧問の先生の眼光は鋭くいつも冗談を言っているような目ではなかった。
これは本物だと詩織は直感した。顔は笑っているのに・・・・
全く違う雰囲気を出している。

「私としても君の才能を潰すには惜しい。親御さんとよく
相談して結論を出してくれ。普通の大学受験をしても良いが・・・・
私はそれだけは止めて欲しいと思っている。もっと世界を見て欲しいというのが
正直な感想だ」
「ですが・・・・・・・・・・」
「まあ・・・・すぐに結論を出すのもどうかと思うので一年待って貰うよう
友人には伝えておいてある。ちょうど三年生なら結論も出易いだろうし、
友人もその位なら外国への進学に差し支えないと言っている」
「先生・・・・・・・・・・・・・・・」
「まあ小耳に挟む程度で考えておいてくれ。期待しているぞ」
「・・・・・・・・・・・・・分かりました。一年後・・・・お答え致します」
「うむ・・・・・・・」
詩織はそのまま職員室を出ようとしたその時背後から顧問の先生の声がした。
「藤崎君・・・・・一度しかない人生だ。思い切って冒険をしてみるのも
若者の特権だ・・・・後は自分で考えなさい」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・はい・・・・・・
失礼します」
詩織は静かに職員室のドアを閉めた。

彼女は一人廊下に立っている。そのまま赤茶けた廊下を静かに歩く。
どこかで野球部だろうか、それともサッカー部だろうか、バスケ部だろうか
何かの運動部の練習の声が廊下にも響いてくる。
夕暮れの廊下は赤茶けた斜光が注ぎ、誰もいない廊下はそれだけでも
赤い世界が広がっていく。彼女に付き従う影はそっと赤い廊下との
コントラストとなって映える。

藤崎詩織・・・・・・ここまで来て知らない人はいないだろう。学力はトップで
運動は抜群。男女生徒からも信頼が篤く、友達も大勢いるという
誰もが羨む女子生徒である。
「はあ・・・・・・どうして・・・・・・・」詩織は持っていた
フルートが入っている皮製のかばんを抱えるとそのまま壁に寄りかかるように
凭れる。
「・・・・・・・・・・才能なんて無いのに・・・・・・」

ため息をつくしかない。元々詩織は六大学への進学を希望していたのだが
小さい頃から学んでいた音楽のほうも捨てきれず、そのままズルズルと
高校生にもなってもまだ結論を出せずにいた。
だがあるクラシックの音楽雑誌に詩織の名前が出た辺りから状況が変わってきた。
そう、ときめき高校にそうした雑誌の記者たちが詩織にインタヴューしようと
アポイントを多数申し込んできたのである。もちろん誹謗や中傷などの
三流記事をネタにかく記者達も来たが、そうした場合は学校の方で
上手く対応していてくれたので彼女のほうに来ると言うのは
無かった。そんな事もあって国立の音楽大学に現役合格するのではないかと
噂が立ち始めていた。もちろん本人は否定するがそれだけ
周囲から期待が高まっていた。

そうした状況下で彼女が所属する吹奏楽部の友人、片桐彩子が
演奏会の開催を企画したのであるが当のご本人が風邪をひいてしまい、
どうする事も出来なくなった時詩織がフルートの伴奏付きで演奏したのである。
それが見事好評となり今回のような事になってしまった。
「彩子があんなに一生懸命に頑張っていたからそれに応えようと
したのに・・・・・どうしてこんな風になっちゃったんだろう・・・・」
詩織は知っていた。この演奏会の為に片桐彩子がいろいろと用意し、
部員を叱咤激励し顧問の先生までやる気になっていたのに本人が
高熱を出して倒れてしまった。そんな緊急事態に部員達からも
動揺が走ったが、詩織が自ら進み出て皆の指揮を執ったのである。

その練習の合間をぬって彼女は片桐彩子の家にお見舞いに行っていた。
彩子の親御さんの話によると高熱のせいでほとんど身体を動かす事も出来ないのに、
ベッドから這い出ようとして叱られたと部長から聞かされていたのである。

だが・・・・・・
お見舞いに彼女の家まで来た詩織に彩子は何も言わずただ枕に顔を伏せて
肩を震わせて泣いていた。
ベッドで横になり、詩織の顔すら見ようとしない彩子に詩織は話す言葉が無い。
彩子の名を呼んで肩に触れようとした詩織は彩子に手を払い除けられていた。
乾いた音がして詩織は慌てて手を引っ込めるがそれでも彩子は
何も言わない。
「彩子・・・・・・・・・・・」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ソーリー・・・・・・・ごめんね・・・詩織・・・・
今・・・・誰も話したくないの・・・・出て行って・・・・」
伏せた顔から彼女の悲痛な声が聞こえてくる。
「分かった・・・・・お見舞いのお花、ここに置いておくね」
近くの机にお見舞い用の花を置く詩織。それでも彩子は何も言わずただ
無言のままベッドに伏せている。
そんな気持ちを推し量ってか、詩織は静かにドアを閉めて部屋を出て行った。

それはあまりにも無念だった。そんな彩子を見るのが嫌だったから
詩織は自分を犠牲にしてまでも彩子が計画した演奏会を潰すわけにいかないと
思い、指揮を執ったのである。だがその親切心が裏目に出てしまった。
そう、自分を高める結果になってしまったのである。

「彩子だったら・・・・・行くってすぐに結論だすよね・・・きっと」
詩織は先ほどの話を思い出していた。そう留学の話である。
もし彩子だったら「イエス、イエス」とか言って手を上げてしまうだろう。
「『もちろん、オフコース、判りました』とか言ってすぐに笑顔でハンコ押しちゃうんだろうなあ・・・・」
彼女の口真似を真似る詩織。少し気が楽になるのかクスクス笑う。

だが自分にはそうした気概が無い。どうしても一歩下がって考えてしまう。
「だから恋愛も遅いんだよね・・・・・・」
後悔というか慙愧のような目で夕焼けの廊下を歩く。
詩織には幼馴染の友人がいた。最初はデートというかあちこちのコンサートやリサイタルに
付き合ってくれていたが最近はあまり付き合いが無いのか
少し距離を置いていた。
それに幼馴染のほうもあまり余計な心配を詩織に与えては、と
思い避けていた。
それに加え、幼馴染も雑誌などで読み次第に詩織が有名になるにつれ
やはりどこかに遠慮というのが心の片隅に出てきたのである。

そうした事もあってどこかの音楽雑誌やクラシックを専門に扱っている雑誌から
詩織の名前が出てくるようになるとさすがに
幼馴染の少年も話しかけるキッカケをどこかで失い、ただ
彼女の方を見ているだけになってしまった。

「はあ・・・・・・・」
詩織は持っていた紙を鞄の中に入れると丁寧な動作で
フルートが入っている皮製の鞄を優しく両手で持つ。
「夢か・・・・・・・・・夢ねえ・・・・・夢」
もちろん最初はそんな事考えもしなかったのだが、まわりの期待が
集まるにつれどこかで皆に遠慮し、他人行儀になってしまっていた。
詩織はそんな自分を一番嫌っていた。だがどうする事も出来ない
自分もそこにいた。

そんな時彼女のポケットに入っている携帯が鳴る。
「あら・・・・・何かしら」
軽やかな音楽と共に詩織はカメラ付きの携帯を見る。
そこには彼女の友人の一人である朝日奈夕子からのメールであった。

メールには写真付きらしく詩織の携帯で開いてみると
エプロンドレス風の格好をした夕子が不機嫌そうな表情をしている
写真だった。

『あのお店で待っている。聡一郎と好雄、優実ちゃん、皆待っているから
早く来てね。ゆーこ』メールにはこう添えられてあった。

「聡一郎君か・・・・・・・・・」折りたたみ式のケータイを
そっと閉じる詩織。

平木聡一郎・・・・・・・その彼女の隣に住んでいる幼馴染である。
ただ詩織曰く優しいのだがどうも気弱というかそう見られてしまう
所があると。その為に中々彼女が出来ないのだが不思議な事に
友達というのは沢山いるという何だか分からない少年である。
言うなればいらぬ心配をして損をする、という押しの足りない少年でもあった。
頼まれると嫌とも言えないとも。

詩織はそのまま学校を出ると家とは違う道を歩き始める。
夕子が言うあの店というのは聡一郎の叔父が経営している喫茶店の事を指している。
今はデジタル、MDやMP3と言ったのが全盛だがその喫茶店は懐かしいレコードを
扱っており店の主人は自分のペースでレコードを交換していくという
中々面白い店であった。

詩織はこの店の雰囲気が好きだった。レトロで趣があり
店の主人とも詩織はすぐに打ち解けた。
最初夕子はもっと騒がしい音楽が流しているところが良いと言ったのだが、
詩織がそういう店が嫌いな為この店にいたらすっかりココが気に入ってしまい
いつものメンバーの集合場所になってしまった。

店の鈴がカランカランと鳴って走るかのように詩織が木のドアを開けて入る。
静かな雰囲気の店は木の床が張られ、ワックスが利いているのか
ピカピカ光っている。
夕日が差し込む店はさほど大きくなく、むしろ赤い光が部屋を照らし
夕日色に染め上げる。そしてクラシックの音楽が店内にかかっている。
テーブルもそんなに多くなく椅子含めて20席あれば良い方である。
その一つにときめき高校の生徒が座っている。他にはひびきの高校の生徒らの
姿が見える。皆音楽を聴き、マスターが淹れてくれる自家製のコーヒーや紅茶、お菓子の
味を楽しんでいる。

「あっ、いらっしゃいませ〜〜〜あっ!」そう言ってウェイトレスが近づく。
明るい声のウェイトレスは詩織を見るなり素っ頓狂な声を上げた。
その声に驚いたのか店内にいた人たちがじっと詩織とウェイトレスを見やる。
「夕子ちゃん・・・・ちょっとお客様が見ているよ・・・」
「はっ!おほほほ・・・・失礼致しました。ちょっとお客様こちらへ」ウェイトレスの夕子は
まわりを見渡すとトレーを持ったまま柄にも無い笑い方で詩織を捕まえて
お客から見えないところに連れて行く。

「遅いよ!駄目じゃない、連絡しなきゃ・・・・」夕子は頬を膨らませる。
「ごめんなさい・・・・でもどうしたの?今日は私が・・・・」
「着せられたの!マスターが人手が足りないから今日はオマエがやれ、とか
言って・・・・・・ローテーションじゃ・・・火曜日と木曜日、金曜日なのに・・・・」
「オマエとて・・・・・・・・・好きそうに張り切っていたじゃないか・・・・」
背後からいきなりマスターの声がする。どうやら夕子の後ろに立っていたらしいのだが
夕子が気づかなかったのである。
「ヒッ、マスター・・・・そんな事ありませんよ、だってね、わ〜〜わ〜〜〜」
何とか誤魔化そうとする夕子に詩織はクスクス笑う。

「全く・・・・・・・・その分のバイト料は出すと言ったはずだが・・・・?」あまり
言わないマスターは腰に手をやるとじっと夕子をにらむ。
「でも・・・・・マスター、休憩無しだなんて・・・・不条理ですよう!」
「そうか?だが聡一郎は嬉々とやっているぞ」
二人がマスターの指差す方向を見るとウェイターの格好をした
平木聡一郎がテーブルをタオルで拭き慌しく動いている。
優しそうな瞳、雰囲気も柔和な感じであるがどうも一押しが足りないような
感じの少年である。だがその分藍色の髪が夕日に照らされると
余計に目立つ。

「そりゃ〜ソウはいつもああだもん。断りきれない性格しているから・・・
だから私が心配しているんだから・・・・・全く・・・・私がいないと本当しょうがないんだから」
夕子はため息をつき、腰に手を当てるとそのまま聡一郎の側までくる。
「こら、ソウ!優実ちゃんと好雄がいるんだから話し相手ぐらいしなさいよ!!」
ソウと言われた少年は困ったような表情を浮かべ少し笑う。

「だって・・・叔父さん大変そうだったから・・・何か悪いなあって思って〜〜〜」
藍色の髪をしている少年は申し訳なさそうな顔をする。でも憎めない。
「悪くないの!!全くソウときたら・・・・・・・」
「はっきり・・・・・・・言うなあ・・・お前・・・・」
マスターの呆れた声がするが夕子は聞こえないそぶりを見せる。

「鈴蘭堂」・・・彼らがいつも集まっている店の名前である。ここのマスターは
ごらんの通り厳格というか面白い性格をしているのだが
夕子が満足な表情をしているのには訳がある。
実はここの制服の人気が高く、アルバイト募集をするとときめき高校だけでなく
お隣のひびきの高校の生徒まで集まってきてしまう。それだけ
人気があり、面接を踏まえてきちんとするので
競争倍率は凄まじくひびきの高校のある女子生徒は
テストよりも難しいと友人に漏らしたぐらいである。

またときめき高校の生徒の間でも「鈴蘭堂の試験、学校の試験より難し」とさえ
言われ、生徒のアルバイト応募が絶えないという人気店に入っていた。
それに加え、コーヒーと一緒に出されるお菓子も手が込んでおり
塩味を効かせながらほのかな甘みがあるバタークッキーを始め、ティラミス、ミルフィーユ、
レアチーズケーキ、焼きマシュマロやチョコレートクッキーも人気があり、ひびきのサイトでも
校内十位内に入るほどの名店となっていた。その為終始お客の出入りが激しいので
いつも満員でアルバイト店員が必要となるぐらいだったのである。
だが、アルバイトの条件が厳しく試験も難しいのに受けにくるので
定休日でさえも行列ができる始末だった。

朝日奈夕子の場合、何十回と受けてようやく合格したのだが藤崎詩織の場合
二回で受かってしまっていた。一回目は音楽の部活動のほうが
忙しくほとんど受けられなかったので、聡一郎が取り成して
くれたのだ。
実のところ、聡一郎らが行った後この店を気に入った夕子が
どこからからアルバイト募集の噂を聞いて詩織を
誘って試験を受けに行ったというのが本当のところである。
まあ結果詩織が二回で合格し、夕子が何十回と受けて受かったのだから
不思議なものである。

夕子はいつもそれをネタに不平を言っているが悪気は無い。
ただ羨ましいだけで詩織もそれが分かっていたから深く突っ込むのを
止めている。
「早く着替えてきてくれ・・・・これからひびきの高校の生徒さん達も来る・・・・
大入りだぞ・・・・・・・・今日も」
マスターの声で詩織もすぐに休憩室に入る。

だが珍しい事に今日は客の入りも少なく6時を回る頃には
ガラガラになっていた。夕日が次第に暗くなり、
ゆっくりと夕闇が迫っていた。
町の街灯もゆっくりと点き、道行く人々の足を急がせる。

「まあ・・・・・こんな日もあるか・・・・・・今日はおしまいに
するか・・・・・」口数少ないマスターの言葉で
皆片づけを始める。
「ほら、聡一郎。オマエ休憩していないだろ。友達が待っているんだから
テーブルに座って休んでいろ」
マスターの言葉で聡一郎も好雄達がいるテーブルに着くと
ウェイターの格好のまま優美が出してくれたお冷を一気に飲み干す。
「ご苦労さん」好雄は声をかける。
「ああ・・・・悪いな、いつも」聡一郎も申し訳なさそうな顔をしているが
好雄はさして気にしていないようだ。
「気にすんなって。それに優美もココが好きだしな」
「うん」好雄に合わせるように優美も嬉しそうに頷く。

「そこ空いている?」そこへコーヒーカップを持った
夕子と詩織がウェイトレスの格好のまま聡一郎の横に腰掛ける。
詩織は聡一郎の向かい側に座る。
ブルーマウンテンの香りが辺りを包み、コーヒー独自の
甘い香りが二人の鼻腔をくすぐる。
ただ夕子は最初から働いていたのでとてもそんなゆとりなどなく
呼吸を整えている。
だから香りを楽しんでいたのは詩織だけであり、ほのかな
コーヒーの香りを嗅ぎクスクス笑っていた。
一方、夕子は何も言わず湯気が出ているコーヒーカップを
両手でほのかな暖かさを確かめるように持ち、少し口に含む。

「朝日奈先輩、お疲れ様でした」優美の言葉に夕子も無言で頷く。
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・ほらソウ、口元にビスケットの欠片
付いているよ」夕子の言葉に聡一郎は口元をあちこち
触ってみるがどこか分からない。
「えっ・・・・どこ?優美ちゃん鏡貸してくれる?」
聡一郎は口元を拭うがまだ拭いきれていないようだ。
ゴソゴソと優美が自分のバッグから鏡を探し始める。

「あっ、ココ」向かい側に座っていた詩織が聡一郎の口元を
触ろうとした瞬間、夕子のハンカチがそっと聡一郎の口元を拭う。
「駄目だよ、ちゃんとしなくちゃ・・・全くソウったら・・・
私がいないと本当に駄目なんだから」
「何だよ・・・そりゃ?」
「だからいつも言っているじゃない!ちゃんとしなくちゃいけないって」
「分かっているよ、全く」憮然とした表情になる聡一郎。
「何よう!」
「何だよ!」二人とも制服の姿のままにらみ合う。
「まあまあ」好雄と優美が宥めようとする。

詩織はそんな二人の様子を黙って見つめていた。
確かに自分のほうが早かったと思ったのに
夕子はすでにハンカチまで出していた。
それが何となく嫌なものだった。
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」
「藤崎先輩?」隣に座っている優美が話しかける。
「あっ、何?優美ちゃん?」
「あっ、いえ・・・何でもないです・・・・ただ怖い顔をしていたものですから・・・」
「えっ・・・・そ、そう・・・・うん、大丈夫。ちょっと疲れただけ」
「そうですか・・・なら良いのですが・・・・・・」少し苦笑する優美。だが
その表情は晴れない。

「ねえ、聡一郎。私ね・・・・・・・・・・・」ウェイトレス姿の詩織が思い出したかのように
聡一郎に話しかける。
「そうだ、詩織。さっき職員室に行っていたみたいだけど
どうしたの?」その言葉を遮るように夕子がいきなり会話に
割り込んでくる。
「えっ・・・・・その・・・あの・・・・」夕子のいきなりの質問に詩織は思わず
黙ってしまう。
「それは・・・・・・・・・・」
「ちょっと待って!詩織だから・・・・・う〜ん・・・・」こめかみに指を
あて必死に考える夕子。
「分かった!成績の事でしょ!そろそろ大学の事も考えなくちゃ
いけないもんね。で、どうするの?やっぱり詩織、東大?
早稲田、慶応?それとも・・・・・上智?立教?津田塾?一橋?受けるの?
学校の先生何だって?予備校とか行くの?志望はどこの学部にするの?
やっぱり掘り出し物(この場合男の事)がいるかもしれない文学部狙い?あっでも
就職には不利か。そうなると・・・潰しが利かない法学部なんてのも
一つの手よね」
片っ端から有名大学の名をあげる夕子に聡一郎と好雄はただ笑うだけ。
「えっ・・・・・その・・・・あの・・・・・・・・」詩織は何とか答えようとするが夕子が
興味津々の目で詩織を見つめるので話すキッカケを失ってしまった。
「・・・・・・・・・・・・・・・・う、うん・・・・・・・だ、大学行こうかなって・・・・」
全く反対の事を言ってしまう詩織。本当はそうではなく
音楽での海外留学が取れそうだと言いたいのだがその場の雰囲気で
反対の事を言ってしまったのである。

「詩織・・・・・・・・・音楽・・・どうするの?」そこに気になったのか聡一郎が聞いてくる。
「うん、それでね・・・・・・顧問の先生から言われた事なんだけど・・・・」
「どうしたの?僕で良ければ相談にのるよ」
「あっ・・・・・・・優しいんだね・・・聡一郎・・・・・・・」
「そうそう、ソウはいつもそうだもん。でもねえ・・・・・やっぱり・・・・・」
ジト目で見る夕子に聡一郎はにらむだけで何も言わない。

詩織は意を決したように聡一郎に話しかける。
「ねえ、聡一郎。ちょっと話があるの」
「うん?」総一郎はそう言うが席を立った。
「どうしたの?」詩織はそのまま厨房に行く聡一郎を見ながら
不安な表情をする。
「いや・・・・・ちょっとね」
しばらくして彼の叔母にあたる女性と彼が出てくる。
彼が持つお皿には今焼き上がったばかりのパウンドケーキが甘い湯気を立てている。
「疲れた時には甘いものが一番!!ってね」夕子の口真似をして笑う彼に
思わず詩織は脱力したのかガクリと項垂れた。

「ソウってケーキとか作るの好きなのね〜〜どうしてなんだろう?」
夕子の問いに聡一郎は苦笑いをうかべ答える。
「そりゃ〜僕、小さい頃からこの店に出入りしていたし・・・叔母さんの作るお菓子の
手伝いをずっとしていたもの。ラム酒の香り利かせたマロンで作った
モンブランもチーズケーキも作れるよ。レシピは見て覚えたし。それでもまだまだなんだけどね。
目下ババロア勉強中」
「凄いのか凄くないのか良く分からないけど・・・・・」好雄の言葉に
詩織も思わず噴出す。
そんな中でパクパクとケーキを頬張る夕子と優美のカップにアップルティーを注ぐ
聡一郎。
「でもさ、これほどの腕前ならオーストリアかフランスに行って
菓子職人になってみたらどうなんだ?」好雄が紅茶を啜りながら言うが
聡一郎は黙ってそれを聞いている。
「聡一郎・・・・・?」目の前の聡一郎が真剣な表情をしているのを
見て詩織も思わず黙っている。でもすぐに諦めの表情になって
ニコニコと笑う。
「無理だと思うよ」
「どうして!頑張れば結果はあとから付いてくる物だよ!」
詩織の言葉に聡一郎は平然とした表情で話す。
それは自分と重ね合わせた言葉なのだが聡一郎は
それを簡単に否定した。

「パティシエはそれだけ鍛錬を積んでいかないと・・・それに・・・・」
「それに?」
「それに・・・・・・・甘くないといけないから・・・・普通の醤油料理じゃないし、
揚げ物を使うものでもないし・・・バニラエッセンス、シナモンパウダー等を使って
風味をつけたりしても料理は甘いものではないといけないしね。
いくつかは変わった味わいにするからというのもあるけど
基本は甘さになるから」
「それなら簡単ですよ、先輩」クッキーの食べかすを口の周りに
つける優美に聡一郎はティッシュで拭いてやる。
「優美ちゃん・・・それは違うよ。それだけ厳しくなるんだよ。ただ甘いというだけじゃ
駄目なんだよ。フランスやオーストリアは洋菓子の本場だけど
小麦や大麦の文化があったからこそ出来たんだ。それは100年や
200年で出来るものじゃないんだよ。
そうして受け継いできたものなんだ。それを日本などアジア圏の人が
そうした所へ飛び込むというのは、
文化の違いをまず理解しなくちゃいけないと言う事でもあるんだ。
ただ甘いだけなら・・・・・・・ね。そうした所は現地の人には勝てないよ」
聡一郎はアップルティーを口に含み転がすように味わった後飲んでいく。

「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」優美は難しそうな顔をしている。
「それに・・・・甘いのもそうだけど、パティシエは夢も作るもの。皆がニコニコして
美味しいと言ってくれるだけでも料理人やパティシエは嬉しいものだよ。
そこまでいくのが難しいんだ。だから僕にはそんな才能は無いよ」
「でも・・・勿体無いです。この鈴蘭堂のお菓子のほとんどを作っているのが
平木先輩と叔母さんだって・・・・やっぱり行ったほうが良いですよ!
悔いが残ります!!絶対!それにいつも先輩言っているじゃないですか!
夢を追い求めるのは若さの特権だって・・・・・」

夢、と聞いて詩織はドキッとした。
自分の夢が中々見つからない。こうして夕子や優美、聡一郎、好雄に
相談しようとしても皆忙しく話すことが出来ない。
そして優美の言葉に詩織は内心落ち着かない。
それでも詩織はさっきの事を話そうとする。

「あっ、そうだ。聡一郎君、ちょっとお話があるんだけど・・・・」
何とか話すきっかけを作ろうとする詩織。夕子は
もはや疲れているのか何も言わずただ詩織を黙って見つめている。
「うん、何?詩織」聡一郎が詩織に気づく。

「あっ・・・・そ、その・・・あの・・・・・」詩織は言おうとしたその時、優美が
柱にかかっていた古い木時計を見る。
「あっ、お兄ちゃん。そろそろ時間だよ。早く閉めないと」時計を見ていた
優美につられて皆時計を見る。

PM9:00

さすがに話に夢中で時計を見ていなかった三人は慌てて更衣室に入っていく。
アルバイトの時間としてはもう時間がない。
高校生が動ける時間は限られている。

そんな中、聡一郎と叔母さんは簡単な話をして、厨房に入っていく。
どうやら明日出すお菓子の相談をしているようだ。
そして生地をボウルにいれ少し寝かせ冷蔵庫に入れる。
聡一郎は冷蔵庫にボウルが入ったのを見るとそのまま
男子更衣室に入っていく。

女子更衣室では・・・・・・・・・

窓も無い部屋に二人、夕子と詩織だけがいる。二人とも
いそいそと着替え始めている。他のバイト仲間は
すでに着替え帰ったようだ。

夕子と詩織がセーラー服に着替えようとしている。
そんな中下着姿の詩織がじっと夕子を見つめている。
「うん?どうしたの、詩織?」
「えっ・・・・・・・・その・・・・・・・」
「さっきから様子が変だよ。どうしたの?」
「えっと・・・・・・・その・・・聡一郎の事なんだけど・・・・・」
思わず視線を下にする詩織。ただチラチラと夕子のほうを見る。
「ソウ?ソウがどうかした?」
「う、うん・・・・仲が良いなって・・・・その・・・・」
「ああ。席近いから。それに腐れ縁って奴かな?」
「そ、その・・・・れ、恋愛とかは・・・?」
「恋愛?誰と?」
「だから・・・・・・ソウと・・・・」
「お友達」
「えっ・・・・・・」夕子のあっけらかんとした言葉に
詩織はしばし無言になる。

詩織が黙っているのを横目に夕子はさっさとセーラー服に
着替えロッカーに入っていた鞄とバッグを取り出す。
「早く着替えないと閉めちゃうよ」夕子の手にはここの更衣室の
鍵がある。どうやらさっきマスターから渡された物らしい。
「お友達って・・・・・・だってさっきのあのハンカチは・・・・」
詩織がシドロモドロになっているのを見て夕子は
詩織の目の前まで来る。

「えっ・・・・な、何かな・・・・夕子・・・・?」
「そんなんだったら・・・・・・・詩織がそういう態度で臨むなら・・・・・・・・
私が恋人宣言しちゃおうかな」夕子の緋色の瞳はまるで
覗き込むかのように、挑戦するかのように、キッと
詩織を睨み付ける。

「えっ!!!!」詩織はただ驚くだけで次の言葉が出てこない。
「こ、恋人って・・・・その・・・・夕子ちゃん・・・わ、分かって・・・・・言っているの・・・?」
詩織の口の中が乾いていく。嫌な味が口の中に広がる。
「詩織さ・・・・・・そんなんでソウがいつまでも詩織だけを
見ているわけ無いと思うよ。詩織は知らないだろうけどソウって
人気があるんだよ。それに優美ちゃん・・・・・あの子も
ソウを狙っている。ソウが詩織だけ見ているだけじゃ・・・・・・悔しいじゃない・・・・
私だって・・・・・だから思うのよ、私だけを見ていて欲しい・・・・・その優しさを・・
その優しさ、私も欲しいの。だから詩織には負けたくないって思うの」
「そ、そんな・・・・・・・・・・」
「だから負けたくない。貴女に・・・同じクラスメートの藤崎詩織に・・・・・
私はソウが好き。でも貴女に負けるつもりは無いの。正々堂々と
貴女と戦いたいのよ」
詩織は何もいえなかった。頬を赤らめて話す夕子の目は
自信に満ち溢れ、詩織を捕らえて離さない。
いや離そうとしない。

「私は優美ちゃんとは違うからね・・・・・優美ちゃんは
甘え上手だから・・・・・私は私の方法で攻めるから・・・・」そう言って着替え終わった
夕子は更衣室を出て行く。
「夕子ちゃん・・・・・・・・・・・・・」
バタンとドアの閉まる音がして夕子の足音が遠ざかっていく。
詩織はただ下着姿のまま呆然としていた。

だが詩織は彼の本当の心を聞こうとしなかった。
一体誰が好きなのか、と聞こうと思えば聞けた。
しかし詩織は聞けなかった。どうしてか分からない。
ただその聡一郎の心を聞くのがとても怖く、恐れ多いと思ったからである。
勉強も、スポーツも出来るのに詩織には夕子のような強い意思が
出せなかった。

「聡一郎君か・・・・・・・・・・」
自分の側にいつもいた少年。お菓子作りが上手く柔和な感じが
する優しい少年。お菓子に関しては自分すら敵わないし、彼の作る
お菓子は確かに美味しい。そんな彼を見ていると
自分も作り方を学びたいと思う。ずっと側にいても良いとさえ思うのに
それなのに・・・・壁を作る。
夕子も、優美ちゃんも・・・そんな彼が好いている。
それでは自分は・・・・・・・?
自分はどうなのだろうか。

好きなのか?

それとも・・・・・・・・・・・・・

だが詩織は彼の側にいると何となく心が安らぐのを感じていた。
いつもニコニコしてあまり怒らない少年。
夕子はそんな彼が好きだという。優美は聡一郎先輩の
作るお菓子が好きで、真心溢れているそんな彼に惹かれている。

詩織には・・・・・・・それが無い。彼を好きになると言う正当な
理由が見つからない。
ただ当たり前にいたから・・・・・・当たり前に側にいたから
詩織は彼に何を求めていたのか分からなくなっていた。
いつも側にいた彼に・・・・・詩織は何をしてやれば良かったのだろうか。

そんな時詩織を呼ぶ夕子の声がする。
「詩織!!!早くしないと閉めちゃうよ!!」その声を聞いて
詩織は慌てて着替え始める。ポケットにお気に入りのカメラ付きケータイを
入れ、財布やお気に入りのハンカチを鞄の中に入れる。
そしてロッカーの中にしまっておいたフルートケースを出す。小さい手鏡を見て
髪型を直し、着替え終わった詩織はそのまま部屋の電気を消す。

そして詩織が出て行った後待っていた夕子が更衣室の鍵をかける。
「夕子ちゃん・・・・・・・・・・・その・・・・・・」詩織がさっきの事を聞きだそうとしたが、
夕子は何も言わずスタスタ先に歩いていく。
「藤崎先輩、どうしたんですか?」朝日奈と入れ替わるように優美が
入ってくる。
「えっ、いや・・・・その・・・・あの・・・・ううん、何でもないの。ちょっと考え事」
「そうですかあ・・・・そうだ、平木先輩が送っていくから詩織先帰っていいよって
言っていましたよ」
「誰を?」
「えへへ・・・私です。やったあ!」自慢気に自分に指差す優美に
詩織は何もいえない。

「本当どうしたんですか?大丈夫ですか?顔真っ青ですよ」
優美に言われ詩織は改めて手鏡で自分を見る。
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」
鏡に映っている自分はいくぶん頬がこけたような感じがする。
目の焦点が定まっていないような気がして詩織はかるく頭を振って
瞼を指で押さえる。

だが詩織はそんな優美を見て羨ましいと思った。優美は嬉しそうな
表情を浮かべ詩織のことなどお構いなしに色々と話しかける。しかし自分には
そんな事は出来ない。どこかで壁を作ってそれを大義名分に
しているだけ。
「そ、それじゃあ・・・・えっと優美ちゃんは聡一郎君と一緒に帰るのね?」
「いいえ、お兄ちゃんも一緒ですけど・・・でも私は平木先輩と帰れるのが
嬉しいですから」
「じゃ、じゃあ・・・そこまで一緒に帰る?」
「大丈夫ですか?さっきから藤崎先輩変ですよ?」
「う、ううん・・・・・・・平気よ。そ、そう・・・・・ちょっと眩暈がしてね・・・・」
「気をつけたほうが良いですよ、もしかしたら風邪かもしれないし・・・」
優美の心配そうな表情に詩織は大丈夫と答えるが内心穏やかではない。

優美がそう言って更衣室から出、そのままホールのほうに出た途端、
聡一郎の右腕に絡み付こうとした夕子にバッタリ出会う。
「朝日奈先輩!!!!!!!何やっているんですか!!!!」
優美の悲鳴にも似た叫び声にも夕子は動じず、ただニコッと笑う。
「いや〜私もそろそろ彼氏欲しいなあ〜って思って。それに一番
お手頃な高校生パティシエがいるんですもの、食べ物には困らないわ〜〜。
ほら帰ろうよう〜ソウ」
甘え声を出す夕子に好雄はただ苦笑している。

「お、おい・・・・・・優美ちゃんと約束が先ってさっきから・・・・・」
「もうお子ちゃまは帰ってドラマでも見ていなさい。大人のお時間に
子供が出てきちゃいけないわ〜」夕子の言葉に優美が
ムカッときたのか反対側の聡一郎の腕に絡みつく。
「先輩は優美と帰るんです!!朝日奈先輩こそ平木先輩に纏わり付くの
止めてください!!!」青色のリボンに纏められた栗色のポニーテールが
彼女の動きに合わせて動く。
「もう〜お子ちゃま。お兄ちゃまと一緒にアニメでもプロレスでも見ていなさい」
「べえ〜〜〜〜〜〜〜〜」夕子の舌戦に優美は舌を出してあかんべえをする。

詩織は三人に話しかけることが出来ない。
「わ、私・・・・帰るね。え、えっと・・・明日・・・・・・それじゃあ・・・・」
無理して笑顔を作ろうとした詩織だったがむしろショックだったのか笑顔が引きつっている。
「分かった、詩織。それじゃあ僕はこの二人を送っていくから」
「お、おい!良いのかよ!」好雄の驚く声がするが詩織は少し笑うと
ううんと首を横に振る。
「ありがとう、早乙女君。でも大丈夫だよ、私は。
それに夕子ちゃんや優美ちゃんが先みたい。私はお邪魔みたいだし」

二人はそんな詩織を見てパッと聡一郎から離れる。
「あ〜あ気分削がれちゃったなあ〜〜〜」夕子が少し離れると
ぺロッと舌を出して小悪魔のような笑みを浮べる。
「えっ!?」吃驚しているのは優美である。さっきまであんなに
熱いアプローチをしていたのにサッと離れたので面食らっている。
「詩織がそう言うならしょうがないもんね。そこまで私鬼じゃないし。
しっかし気分殺がれるなあ〜〜〜聡一郎、優美ちゃんしっかり送っていきなさいよ。
送り狼になったりして」
「夕子・・・冗談・・・きついぞ。それに好雄もいるんだから大丈夫だろ?」
聡一郎の言葉にテヘッと舌を出して笑う夕子に詩織はただ首を傾げるしか
無かった。
「う〜〜〜〜ん。それじゃ私も今日はお兄ちゃんと帰ります。平木先輩は
藤崎先輩と朝日奈先輩を送ってあげて下さい」
「お、おい・・・・」
聡一郎が止めるのも聞かずに早乙女兄妹は出て行く。
結局・・・・・・途中マスター夫妻と別れた三人はそのまま帰ることになった。

だが詩織にはその心が分からない。夕子は鞄から
ソニーのMDウォークマンを出し、音楽を聴いている。
ジャガシャガ・・・とヘッドホンから音楽が漏れているが詩織にはちょっと
理解し難い曲のようだ。
それでも夕子は無言のまま詩織と聡一郎に歩調を合わせ歩いている。
道すがら聡一郎と夕子が何か話をしているが詩織はほとんど聞いていない。
気になるのに聞いていない。どうしてか分からないのに
聡一郎と夕子が話している内容がとても気になる。
でも何故かその事を聞くことが出来ない。
ただ街灯が三人に道を知らすように灯っている。

聡一郎は普通にしているのだが詩織と夕子は目すら合わせようとしない。
何となく互いを意識しているのか、終始無言でスタスタ歩いているだけで何もしない。

「それじゃ、詩織。僕は夕子を送っていくから。ここまでなら大丈夫だろう?」
聡一郎の声で詩織は我に帰った。見慣れた家が見えてくる。
二階の部屋の窓にはピンクのカーテンが見える。
その向かい側の普通の家が聡一郎の家である。
「え、えええ、ええ・・・・・・・・」珍しく動揺している詩織。
「どうしたの詩織?」
「う、ううん・・・何でもないの・・・・。それじゃね、聡一郎君」
「ああ。それじゃあ」聡一郎の言葉に
頷くように詩織はそのまま別れ、自宅の玄関をくぐる。

夕子と聡一郎はそのまま自分の家を通り過ぎて大通りのほうに向かう。
「詩織・・・・何か様子が変だったな」
「気になる?」
「う〜〜〜ちょっとは、ね」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」
夕子が珍しく黙っている。いつもならマシンガントークで
色々と捲くし立てるかのように話すのに今日に限っては
珍しく黙っている。そんな夕子を見て聡一郎は首をかしげている。
「私ね・・・・・詩織に言ったんだ」ふと夕子は消え入るかのようなか細い声で
聡一郎に話しかける。

二人の革靴の音が街灯照らす道路に響く。そして月明かりが
ゆっくりと二人分の影を作る。だが月明かりからなる影はぼやけ
薄っすらとした暈けた影しか出来ない。
「そっか・・・・今日は朧月夜か」聡一郎の呟きに夕子は
そっと頷く。
「私・・・・・・・・朧月夜って・・・嫌いだな・・・・何か見せてくれないって
感じがして・・・嫌なの」
「そうか・・・・・?」
雲に隠れるかのような霧の中に
消えているかのような月夜はとてもロマンチックとは言えず
まるで今の詩織と夕子の心を現しているかのようである。

月の形ははっきりとしているのにどうして全体がぼやけ隠れようと
するのか。それらを隠す雲や霧は月を覆い尽くし
さらにぼやけさせる。

ガヤガヤしていた町の灯りも閑静な
住宅街ともなると静かで二人の靴音しか聞こえてこない。
そして街灯には寂しい灯が灯り、チカッチカッと点滅を繰り返している。
そんな寂しげな光に集う羽虫を他所に二人は
歩いていく。

もうすぐ夏だというのに鬱蒼たる暗闇と静寂な雰囲気は深々と二人の心の中へと
入っていく。ただ聞こえるは街灯に照らされた道を歩く二人の革靴の音のみ。
乾いた感じのする音は二人を包み、淡い月光は薄っすらとした影しか作らない。

「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」夕子の口がモゴモゴ動いている。でもそれは
あまりに小さく聞き取れない。
「何を?何を言ったの?」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」夕子は聡一郎を止めた。
「どうしたの?何か具合でも?」

向かい合う形になった聡一郎と夕子だったが夕子は黙っている。
そして搾り出すかのように言葉を紡ぎ始める。
「私ね・・・・・・・・・・詩織に挑戦状を叩き付けたの」
「挑戦状?」
「そう・・・・・・・・・・・・・・・・貴方を詩織から奪い取る為に」
「!!!!!!!」
「私は・・・・・本気よ。ソウは気が付かないかもしれないけど・・・・
貴方の事好いているのは・・・・・詩織だけじゃないの。愛・・・・も・・・・
いずれ・・・貴方に・・・・・・・」
「愛?誰?」総一郎は知らなかった。
今は知らない。ただいずれ知る事になる。
聡一郎を頬を赤らめて見つめている者がいる事に。

「ううん、何でもない。ただね・・・・・貴方が私を見る目と詩織を見る目が
違うのに・・・・・・凄くそれが嫌なの。だから・・・・・・だから・・・・・ね・・・・・」

チュッ。

微かに聡一郎の唇に夕子の唇が触れる。
聡一郎の背丈が高いのか夕子は思わず爪先立ちになってしまう。
それでも夕子は精一杯背を伸ばす。
「誰にも・・・・・・負けたくない・・・・誰にも」キスを交わす夕子の瞳から
涙が一滴頬を伝って滴り落ちる。
「夕子!!」
「あははは・・・・それじゃあね、ソウ。ううん、聡一郎君」頬を赤らめて自宅のほうへ
走っていく夕子。聡一郎はただ固まっているだけ。

聡一郎はそっと唇に手を触れる。かすかに夕子がいつもつけている香水の
ほのかな香りがまだ制服についている。
「夕子・・・・・・・・・・どうしちゃったんだ・・・・・・」
聡一郎はそんな事考えもしなかった。ただ朝日奈がいて藤崎がいて
早乙女兄妹がいて・・・・・皆がいて・・・そう思っていただけだった。
詩織が自分に好意を抱いていたのは知っていた。ただ詩織の事を
考えて聞こうとしなかった。それが何を意味しているのか
知ろうともしなかった。ただ壁をお互い作って方便を
作っていただけだった。

もしかしたら・・・・一番心を聞くのを怖がったのは聡一郎本人だったのかも
しれない。ただ「好きです、付き合ってください」って言ったら
どんなに楽か、自分には分からなかった。でも皆の事を
考えてそれは控えていた。聞くのを止めていた。
今の詩織は音楽で手一杯。それに余計な事をして
詩織を悲しませたくない。

一人で自宅まで戻る聡一郎。だが頬は赤くさきほど
夕子にキスされた唇をそっと何度もなぞる。
そして何度も唇をこすってピンク色のルージュを落とそうとする。

自宅の前に私服に着替えた詩織が立っている。
「あっ・・・・・・・・・・・・・無事に・・・送り返した?」
「ああ。それでどうしたの?詩織?」
「えっ、うん。今日ね学校の先生から・・・・ちょっと聡一郎どうしたの?
聞いてる?」
「えっ、ああ・・・聞いてるよ。それで何?」
「何って・・・・・学校の先生からね・・・・・」詩織は言葉を紡ごうとするが
詩織の母親が彼女の家から出てくる。
「詩織、電話よ。さっきから言っているのにどうしたの?それに早く
お風呂入って。お父さん困っているんだから!」
母親は聡一郎を見つけるとお辞儀をする。
「こんばんわ、聡一郎君。今日もアルバイト?」
「こんばんわ、小母さん。ええ。そのようなものです」
「でも無理しちゃ駄目よ。いつも聡一郎くんは無理しているから
小母さん心配で・・・・」
「大丈夫です。それよりも詩織に何か話でも・・・」
「あっ、そうね。ほら、詩織早くお風呂に入って。お父さんどうするか
聞いているから」
「う、うん・・・・・分かった。すぐ入るってお父さんに言っておいて。
それから電話は後で連絡するからって」
詩織が母親にそう言うと母親も頷いて聡一郎の方を見る。
「それにしても聡一郎君もいつも大変ね。
うちの娘もお菓子作れるようになれば良いのだけど・・・」
母親の言葉に聡一郎はただ苦笑いを浮べている。

「どうやら明日のほうが良いみたいだね。僕も・・・眠いからこれで」
普通の会話をしているのに聡一郎は詩織の顔を見ていない。
「ああ、ちょっと。待ってよ聡一郎」詩織が追いかけようとする。聡一郎の腕を
掴もうとするが聡一郎はサッとよける。
「ごめん・・・詩織。僕眠いんだ。今日の仕込みちょっと早かったから」
「え・・・ああ・・ごめんなさい・・・それじゃ・・・・お休みなさい・・・聡一郎」
二人とも自宅のドアをくぐる。聡一郎は詩織の方を振り向く事は出来なかった。
バタンとドアが閉まっても詩織はじっと彼の家のドアを見つめている。
でも彼が出てくる気配がない。

もうすぐ夏だというのに詩織はギュッと自分を抱きしめる。こうしておかないと
自分が保てないような気がしたから。

心がとても寒く感じた。何かが抜けたような・・・・
心のどこかで隙間が吹いていた。

「・・・・・・・・・・・聡一郎・・・・どうしちゃったの・・・一体・・・・・」
詩織は聡一郎の制服からわずかに香る香水の匂いに気が付いていた。
それに一生懸命拭い去った唇。本当に微かだがピンクのナチュラルカラーの
口紅が彼の唇についていた。

詩織はそれが誰のか分かっていた。
だが・・・自分にはそれを問い詰める事が出来ない。
あの夕子の緋色の瞳はじっと詩織を見つめ、にらみつける。
それはまるで猫のように。しなやかな強さをもって詩織の心を
締め付ける。
詩織は強い意志に圧されどうする事も出来なかった。
ついこの間口紅とマニキュア、香水のセットを渋谷の109で二人で仲良く
笑いながら買いに行った時の思い出が、ずっと昔の出来事のような
感じがしてより詩織の心を寒くさせる。

「寒いよ・・・・・寒いよ、聡一郎」
詩織の呟きを聞く者は誰もいない。ただ時間が過ぎていく。

そうして・・・・・・・・・一日が過ぎ去っていく。
色々な人の想いと共に。

「朧月夜:黒翼」

一人灯りを消した部屋で緋色の髪を持つ少女は、裸体を差し込む月の光に
晒している。シャワーを浴びたばかりの肌からは湯気が立ち上り、
頬を赤らめる。まだ肌はしっとりと濡れ、拭き残った雫が
少女の肢体をツツと肌に沿って滴り落ちていく。
蒼く輝く月の光は鋭利な刃物のようで、蒼く染まりし
ナイフのように、冷たさと漆黒の暗闇が部屋を覆う。

スタイルが良く、形の良い乳房。そして誰にも抱かれた事のない、
綺麗な裸体。軽いシャギーがかかっている髪は真紅のように
靡き、サラサラと解ける。
そして、月の光に映えるニンフのように肌は白く反射し、輝いている。

少女はいつもとは違う表情をしている。
いつもニコニコと笑い、冗談を言ってはクラスメートを笑わせていた彼女は
ここにはいない。
そしてゆっくりと彼女が言葉を紡ぐがその言葉は一人の憧れとも言える少女
に対しての改悛でなければ、慰めの言葉でもない。でもその声は泣いている。
否定をしなければならないのに、なぜ否定出来ないのか。

「うぐっ、うぐっ・・・・ううう・・・・詩織ぃ・・・・しおりぃ・・・・・
全部・・・全部・・・・貴女が悪いんだよ・・・・・・どうして・・・・
どうして人のモノを横取りするんだよっ!なんでそれが分からないんだよ!」
幾重にも涙の後が頬を伝って落ちていく。

いつものような彼女はココにはいない。いつも
楽しげに話す夕子はおらず、ただ憎しみだけが
彼女の心を支配している。

それは嫉妬なのだろうか。それとも大きな憎悪なのだろうか
それは分からない。それとも自分を見ているのだろうか。

可愛らしい瞳から溢れる一筋の涙。そしてその涙の量も増えていく。

「詩織・・・貴女は私の憧れ。でも追いついてちゃいけないんだ。
どんなに友達を作っても、多くの友達を作っても、携帯で
メル友作っても、結局貴女には敵わない。
だから・・・・貴女を憎んだ。あなたを許せない。でも憧れるよ、憧れる。
どうして・・・・貴女がいるのよ・・・なんで・・・いるのよ・・ううう・・・・
ごめん・・・しおりぃ・・・・ごめん・・・でも・・・貴女がいけないんだ・・・」

もし詩織の背中に羽が生えていたのなら、それは純白を示す白き羽だろう。
恋人たちを導く天使のように、光り輝く女神となりて、幸福を
齎すだろう。多くの人々は彼女に憧れ、優しい笑顔に癒されるだろう。

夕子には詩織の背中に白い羽が生えているかのように見えた。
多くの友達がいる。慕う後輩や新入生の生徒すら詩織に
何とかお近づきになろうとする。吹奏楽部のクラブ勧誘の時には
10人単位の新入部員が入ってきた。片桐彩子や
藤崎詩織と言った先輩達の存在は大きかった。

そしてニコニコといつも笑みを絶やさず、後輩や同級生達からも
慕われる。

夕子は生徒の影に隠れてそんな詩織を見つめてきた。
自分にはそんな力はない。ただ出来るのは友達を作って、
遊ぶ事。

詩織はそれでも夕子と友達になろうとした。だが夕子は
そんな詩織を鬱陶しいとさえ思った。
ニコニコ笑って「夕子」って呼ぶ詩織がどんなに疎ましいと
思った事か。

自分に無くて彼女にある物。

それを奪い取りたい。詩織の背中に生えている白い羽根を
毟り取りたい。抉り取りたい。引き千切りたい。

それならば自分には何が生えているか。
後ろを見たくない。でも見なければならない。

どうして泣いている?

もし生えていたのならそれは、
旧約聖書にある堕天使ルシファーそのものである。
黒き羽・・・・それが少女の肢体を覆い尽くす。
黒く、鴉のような羽根は少女の心を表しているかのよう。
黒き羽。暗闇。闇黒・・・・鴉のように黒い羽根がまるで
少女の心を表しているかのように戦慄く。
月の光を浴びて、黒き羽根はより輝く。

神に嫉妬したルシファーは己の原罪の為、地獄に落とされる。
だがそれは神だけでない。神に愛されたいと望むあまり、
人間にも嫉妬した。愛を享受するのは己なのだと。
そして戦いに敗れ堕天した。

悪魔となったルシファーはそれでも神に憧れただろう。
愛されたいのに愛を拒む。それゆえに愛を試される。
愛という重みにあえて試問される。

愛しているのか。
誰を?
愛されたいのか。
誰を?

「詩織・・・・・・・・私はね、貴女の事大好きだったんだ・・・・・
でもね・・・・・・聡一郎は貴女の物じゃない。恋する権利は
誰にでもあるの・・・・・だからソウの為なら、私、私・・・・
貴女を貶めることだって出来る。
そして・・・・・・ソウが望むなら・・・私・・・自分の・・・身体を・・・・」
鬱陶しいと思った詩織を前にしてどんなに
情けないと思ったことか。光輝く少女は夕子にとって
あまりにも神々しい。何か触るのが憚られる。
でもそれを口にするのがとても辛い。
頬に伝う涙は止まらず流れ、少女の心の傷を押し広げていく。

「詩織・・・しおりぃ・・・・詩織・・・・全部貴女がいけないんだ・・・・
いけないんだよう・・・・人を好きになっちゃいけないの?嫌いでなきゃ
いけないの?どうして好きになっちゃいけないんだよう・・・答えてよ、しおりぃ。
でないと私惨めだよっ・・・・ひくっ、ぐすっ・・・ひくっ・・・・」涙と共に鼻を啜る音も
聞こえる。

生まれたままの少女は部屋で月の光を浴びながら
思索に耽る。

そのまま少女はベッドの中へと潜り込む。毛布に包まり
ゆっくりと瞼を閉じる。毛布の中で包まるように眠る少女。
少女はゆっくりとキスを交わした唇に触れる。
少しでも唇に触れると、そこは熱を持ったかのように
暖かく、自分でも頬が赤くなるのが分かる。

月の光に戦慄くように黒き羽が少女に生えている。
彼女が毛布の中で丸くなっても鴉のように
生えている黒き羽根は決して白くはならない。

「ソウを感じるよ・・・・暖かいよ」
いつも聞いているMDラジカセには電源すら入れず、
ただの黒い物体として机に置いてあるだけ。ラジオの電源すら
入っていない。

そしてピンクのルージュは詩織と一緒に渋谷まで買いに行ったお気に入りの
ルージュ。

どこかで歯車がずれただけなのに。

「おやすみ・・・・聡一郎」少女はそのまま眠りについた。

次の日

聡一郎は朝早くに家を出た。もちろん仕込みの手伝いもあるが
それよりも、日直だったので早くに出かけなければならなかった。
だがもう一つ理由があった。

詩織に会いたくない。どんな顔をして挨拶すれば良いのか
分からない。

今詩織の顔を見るのがとても嫌な感じがして顔を背けたくなる。

「・・・・・・・・・・・・・・・・・」聡一郎は無言のまま学校へ向かう。
途中早乙女兄妹に出会った。坂道の途中二人はソウを見つけると
気軽に手を上げた。
「せ〜んぱい、お早うございます!」いつも元気な優美の声に
ソウは何気なく手を上げた。
「おう、早いんだな、今日に限って。どうしたんだ?」
好雄の声にソウは何となく、それでいてあいまいな笑みを浮べて
手を上げただけ。
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・?」二人とも顔を合わせて首を傾げる。
「それで詩織ちゃんは?」
「あ、いや・・・・・今日は僕だけ早く出たから・・・・それに仕込みもあるし・・・」
「お前何言ってんだ?仕込みなら大体昨日のうちに全部やったじゃないか?」
「あ、いや・・・・その・・・・・に、日直だから・・・・・」聡一郎は何かを思い出したように
取ってつけた言い訳をしている。
聡一郎の言葉を聞いて次第に好雄の表情が固くなる。
眉間に皺を寄せ、怪訝そうな顔をしている。
そしてじっと聡一郎を睨みつける。

「お前・・・・・・・・・・何かあったのか?」
「な、何を・・・・・・・・」

「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」じっとソウを見つめる好雄に
ソウは目を合わせられない。瞳が逃げていく。
好雄の視線がこれほど痛いとは思わなかった。何か疚しい事をしたようで、
嫌だった。今までの世界が平和すぎたからだろうか。
歯車がちょっとずれるだけでこれほど世界が変わるのだから。

「まあ・・・・・良いけど。お前のことだから別に関係ないけど・・・
あんまり詩織ちゃんを困らせるんじゃないぞ。ほら行くぞ、優美」
「あっ、待ってよ。お兄ちゃん」優美の手を引っ張って先に行く好雄。
「それじゃあ先輩。お先に」
「あ、ああ・・・・・・」

朝のホームルームが終わり、一時間目の授業がそのまま始まろうとしている。
詩織は気まずくなった雰囲気のままソウを見つけると話しかけることにした。
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・ソウ」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」
「ソウ・・・・ったらねえ・・・・聞こえている?ちょっと聞きたいことがあるのだけど」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」
難しい顔をして黙っている聡一郎に詩織は何度も話しかけようとする。

好雄はそんな二人をじっと見つめている。怪訝そうな表情を浮かべ
これからどうなるのか確かめようとしているのだろうか。

そんな二人の間に割りこむように夕子が入ってくる。
「あっ・・・・・・・・・・・」詩織の声にも夕子は無言のまま。
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・」詩織は夕子を見るが夕子は一瞥くれただけで
聡一郎にだけニコニコと話しかける。
「ねえ〜ソウ。今日教科書忘れちゃったの。見せてくれない〜〜」
「と、隣のひ、人の・・・・・・」
「それに〜〜今日私日直なのよね〜〜〜今日はソウと一緒」
「お、おい・・・・・・日直は確か・・・・」聡一郎は日直の女の子を見ると、
女子生徒はニコニコと笑って拳を作る。

頑張って、という意味なのだろう。

どうやら夕子に買収されたようである。

「えっと・・・・・・・」詩織は夕子に話しかけようとする。
「何?藤崎さん?」
「ううん、何でもないの。そっか、じゃあ日直頑張ってね」
「頑張るって・・・何を?」夕子の言葉に詩織も詰まる。

「ま、まあ・・・・その・・・・・あの・・・・・」

詩織は夕子のその勝ち誇った笑みを見ていた。わずかに見せる
勝ち誇った笑み。それはまるで小悪魔のように、
「さっさと退きなさいよね」と言っているかのようである。

無言のまま時間だけが過ぎていく。ただ何もない時間。
それが何と短いようでいて、長く感じた事か。
ただ時間だけが進んでいく。

「どうしたの、藤崎さん?お客さんでも来たの?保健室でも行く?」
夕子の言葉に詩織は俯く。
「あっ、い、いえ・・・・そうじゃなくて・・・その・・・・・」

「だったら早く退いてくれないかな?机寄せるから」
あっという間に机が寄せられる。
「僕なら・・・好雄に借りるから・・・・その・・・・あの・・・・教科書・・
貸すから・・・」
「駄目」
「うっ・・・・そんな・・・・」頬を赤らめて夕子を見つめないようにしている
聡一郎に、彼女は笑っている。昨日の唇の感触がまだ残っている
聡一郎には刺激が強すぎた。
「ほら貸してぇ〜ねえ、聡一郎君」
「うっ・・・・・・わ、分かったよ・・・・」

詩織はそんな彼らの様子を見つめていることなど出来なかった。

放課後

その日、朝日奈夕子は担任の先生に呼ばれていた。
彼女は無所属だった為授業が終わるとすぐどこかに逃げてしまい、
学校でも捕まえる事は出来なかった。
早乙女好雄やその他の生徒らとどこかに行くと
夜遅くになって帰ってくる。別に不良とか
そういうのではなく、ただ学校生活を目一杯
遊ぼうとしていただけであった。

だが、夕子が呼ばれるのも一度や二度じゃない。
年が年末になるにつれてその数も増えていく。
だから呼ばれるたびに夕子は憂鬱になっていく。
自分でも原因がどこにあるのか分かっていた。ただ分かっているのに
それを改めて他人から指摘されるのがどんな煩わしい事も。

夕子には夢が無い。何をしたいのか良く自分でも
分からない。何かをしたいのに何かが見つからない。
それは詩織とも違う。何かが見つかりそうなのに
夕子はそれを放棄して、遊ぶ。
今を楽しみ、今している事に満足し、そして夜遅くまで
どこかでバイトして帰ってくる。ファミレスだけでなく
鈴蘭堂のバイトにも精を出す。カラオケで歌い、
ゲーセンで得意のクレーンゲームを制覇する。
対戦や通信のできる格闘ゲームと友達で遊んでは、エアホッケーにも
手を伸ばす。
好きなアイドルグループのライブに行っては
楽しんでくる。それでも一線を越えたことはない。

職員室のドアが開いて、夕子が入ってくる。ノックもしないので
他の先生に叱られてから入ってくる。
向こうですみません、せ〜んせいという声が聞こえてくると
他の先生も呆れたのか、そのままどこかに行ってしまう。

夕子はテヘッと舌を出したまま、担任の女先生の所まで来る。
「お呼びですかあ〜〜先生」ちょっと悪戯っぽく笑みを浮べ、
腰を低くして、ゴマスリをしているような姿勢で話しかける。
女の先生はチラッと夕子を見てからため息をついた。
「ちょっとココではなんだから、進路指導室に行きましょう」
進路指導室、と聞いて夕子は内心ため息をついた。
(また・・・あの話か。嫌だなあ・・・・・先生なんぞに干渉しないで
欲しいよ)内心そう思ってもさすが表情には出さない。
そのまま先生の後をついていく夕子。
「はいはい・・・・・」やる気が無さそうに適当に言う夕子。
「返事は一つ」
「はあ〜〜い・・・・・」
「全く・・・・・・・」

進路指導室には誰もいない。ただ乱暴に積み重ねられた
ダンボールや書類らが整理されずにテーブルの上に置かれている。
ロッカーも整然と並んでいるとは言えず、床も汚れが目立っている。
「朝日奈さん、そこに座って」先生が向かい側のパイプ椅子を指差すと
自分はその向かい側に座る。そして何枚かの書類を机に置く。
「ココに呼ばれた理由・・・・分かりますね」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」さっきのような卑屈な態度をとっていた
夕子の表情がガラリと変わる。眉間に皺が寄って厳しい表情になる。
「単刀直入に言います。貴女はいつまでそうしているつもりですか?
進路希望も出さずに・・・・夜も遅くまで遊んで・・・・・それで良いの?」
頬杖を組んで夕子を睨む女の先生は鋭い視線を投げかける。
「えっと・・・・・そう怒んないでよ〜〜先生。だってまだ高校二年だよ〜〜
私。それにもっと色々やりたいじゃん。だったらさあ・・・・・」

乱暴に机を叩く音がする。
それは担任が怒って机を叩いた音だった。

「貴女いい加減にしなさいよ!いつまでそんな事をしているの!
進路希望も出さず・・・大学進学するわけでもなく・・・・
専門学校に行くわけでもなく・・・結婚する訳でもない・・・
貴女の夢って何なの!就職?この間それを聞いたら
はぐらかすし・・・貴女は何がしたいの?」

「なにをすればいいんだよ、それじゃ?私色々したいのに
どうして区切ろうとするんだよ!そんなに人の人生決めるのが
大切なのかよ!」
「それもこの間聞きました。それで貴女に宿題を渡しましたよね。
約束の期限までに自分の進路をはっきりさせておくと。
私に約束しましたよね。あれは何?先生との約束を裏切ったのですか?」
「だって・・・・・・」
「貴女はいつもそう。どうして逃げ場所を求めようとするの。どうして
真正面から向かおうとしないの。ノラリクラリとかわして・・・・
何か言いたい事があるなら言いなさい!」
「でも・・・・・・・・・・・・・・・・・」
「それで貴女はまた逃げ場所を探すのですか?今度は誰に頼るのですか?」
「だって・・・・・私だって・・・何か見つけたいよ・・・・・」
「それなら誰でも同じです。誰だって最初は真っ白です。
それでも自分の可能性を信じて何かを掴もうとするものです。
でも貴女はそれを最初から放棄して、自分の為だけにそれを使っています。
貴女を見ているととても可哀想になってきます」
捲くし立てるように早口で話す担任に
夕子は何か言おうとするが、担任に止められる。

「私だって・・・・何かがしたいよ!何かが見つからないから
分からないんだよ!!」
「それは・・・・・・甘えですよ、朝日奈さん」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」
「分かっているでしょう。もう大人にならなきゃいけないんです・・・・」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・」
「二年か三年もすれば・・・・貴女は立派な大人です。そうしたら自分の
判断で何かしなければなりません」
先生の言葉は優しく、諭すように話しかける。
「それをいつまでも遊んでいたら・・・・・・・それから朝日奈さん、
携帯の電源は切っておいて下さい。今大切な話をしていると言うのに
鳴らすのは失礼ですよ」
夕子はポケットに手を伸ばすとそのまま携帯の電源を切った。

「でも・・・・先生・・・・何をすれば良いのか・・・・」
「今度親御さんを呼んで三者面談を行う必要があるようですね。
朝日奈さんが何をしたいのかさっぱり分からないのでは、
就職も、結婚も、進学も分かりません。
今度親御さんに来てもらうように貴女に書類を渡します。
でも・・・・この間みたいな真似はさせません。
どこかに書類を忘れてきた、無くしたとか言わせませんからね」
「何するのさ、先生?」
「電話をしておきます。全く・・・貴女だけですよ、進路が
はっきりしないのは」

「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」
「言いたいことはこれだけです。それから・・・・朝日奈さん」
「はい・・・・・・・・・・・」
「進路が決まったらどこかで遊びましょう。その時は先生も
何かプレゼントしますわ。だから頑張りなさい」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ごめんね、先生。自分の志望が
見つからなくて・・・・・・・・」
席を立った夕子はそのまま一礼して部屋を出て行った。
「全く・・・・・・・・・・・他の皆はすでに決まっているというのに・・・
あら?そう言えば男子でも一人いたわね。進路決まっていない人が。
あらいやだ、今度呼び出さないと」
担任の先生はパラパラと資料を捲り始める。
「え〜っと、え〜っと・・・藤崎さんは・・・・進学と。早乙女君は・・・・
専門学校と。美樹原さんは・・・・・就職と。
あら?平木君はどうするのかしら?そう言えばどうするのか
全然聞いていないわ。伯父さんのお店継ぐのかしら。
でも親御さんは反対していると聞いているし・・・・
今度聞いてみないと」

学校から無言のまま夕子は一人商店街を歩いている。
友達からのメールが着ていたが彼女自身行く気が
無いのか、すぐに断りのメールを送っていた。
友人や他校の生徒からは電話やメールが送られてきていたが
答える気力が無かった夕子は、無意識に携帯の電源を切っていた。

繋がりたくない、誰とも。ただ一人でいたい。

トボトボと力なく歩くさまは、何かに捕りつかれている
ように見える。
シャギーのかかった、短めの髪が力なく揺れる。
通り過ぎる人達が夕子を見るが別にそんな事
気にする訳でもなく自分の生活に戻っていく。

駅前のパチンコの音、商店街の人々の行きかう声。
スーパーの袋を提げた人々。夕暮れを急ぐサラリーマン。
どこかの飲み屋を探し歩くサラリーマンもいる。
そして時々見かけるときめき高校の生徒や他校の生徒も
いる。

夕子にはそれらが鬱陶しくて仕方が無かった。

駅前の通りを歩く夕子。ただどこに行くのでもなく、
ただうろついている。

夕子にも分かっていた。先生の指摘通り、
自分に甘えがある事も。だがそれを認めてしまえば
この楽しい学園生活が終わってしまいそうな気がして
認めたくなかった。
楽園を追放されたくなかった。
だから自分を誤魔化して、茶化して、
道化を演じるしかない。

両親からは早いうちにどうするか決めなさい、とも
言われていた。だが決め兼ねない夕子に両親は
お見合いの話も切り出してきていた。

就職するにしても、この状況ではいつリストラされるか
分かったものではない。ましてや大学生とは違い、高校生の
女子の就職率は10人以下だとも言われていた。
そうなってくるとコネか縁故を利用するしかないが、
それでも高が知れている。
それだけに資格が必要なのだが、
夕子はそれすらも受ける気が無かった。

そのまま彼女はどこかの店先の
ショーウィンドウに映った自分を見つめている。
「何やりたいかなんて・・・・・分からないよ」
冷たいガラスに手を当てる。
はあとため息をつくが、ただ目の前のガラスが煙るだけで
それもすぐに消えてしまう。

今まで自分は将来の事なんて考えもしなかった。
ただ皆と一緒にいればそれで良いと思っていた。
楽しい事はずっと続けば良いと思っていた。
でも一方で分かっていた。次第に友達が
将来について考えるようになっていく事に。
そして将来のために友人が夕子から離れていく事も。

だが、夕子は動かなかった。動きたくなかった。
どこかで楽園から追放されるのではないかと
思い、どうしてもその一歩を踏み出す事が出来なかった。

こんなにまで一人を感じさせる事はない。
夕方になるにつれて、薄暗くなっていく。
不意に夕子の鼻に何か滴が当たった。
思わず空を見上げた夕子。
その空はすでに暗く、雷雲が空を覆いつくしていた。
「?」
そして、雨の匂い。何か水を感じさせるような
雨の香り。

激しい一時の雨を避けるように夕子は一人、
シャッターが降りている店を見つけてその店先で
雨宿りをしている。
少し薄暗い空を見上げた夕子は、右手に当たる雫を見つめては、
どうすることも出来ない自分に怒っていた。
だが怒ってもどうする事も出来ない。

ただ、どこかでそれを認めている。
「嫌だなあ・・・・・・・・傘・・・持ってくれば良かったよ・・・
ついてないや。もうちょっと待ってみて雨が激しかったら、
お母さんに来てもらおう・・・・・・・」

「一人・・・・・・・か・・・・・結局友達なんて自分が一番可愛いもん。
結局誰だって一人になっちゃうんだもん」
自嘲気味に笑う夕子。
「寂しいよ・・・・・・・・」雨で濡れた制服が重く圧し掛かる。

夕子はふと何かの気配を感じた。何かが道路の
片隅で鳴いている。激しい雨が降る中で、
微かに聞こえる寂しげな泣き声。

それは母犬を捜す子犬の姿だった。雨でずぶ濡れに
なっている子犬は猛スピードで走る車の水しぶきを浴びて、
可哀想に鳴いている。どこかで母犬と逸れたのだろう。
それはまるで当ても無く、町をうろついた夕子そのものだった。

目に映る物に怯えて、一人でいる自分。
現実という目に映る物に、逃げ出そうとする自分。

道化をしている自分が現実を知ると、何と寂しいものだろうか。
そしていつかは現実を知らなければならない自分。

夕子は濡れたまま子犬の所まで駆け寄るとそのまま
抱き上げて、店の店先に座り込む。
「お前も一人なんだね」
子犬は最初震えていたが、安心したのか、
甘え声をだして夕子の手を舐め始めた。
「きゃは、くすぐったい、こら駄目だよ」
そして子犬は夕子の腕の中でスウスウと眠り始めた。
「よしよし・・・・・・」夕子は子犬を撫でてやる。

「私も・・・・・・こんな風に鳴いたら、誰かが拾ってくれるかな・・・・」

店のシャッターに凭れ掛かるように腰掛けている夕子は
そのまま雨雲を見つめている。激しい夕立は一向に止む気配を
見せない。アスファルトは雨水を弾き、マンホールに、下水道に雨水が
流れ込んでいく。

夕子は思わず空を見上げる。空は薄暗く、暗幕が下りてきているか
のように、雷雲や分厚い雲が風を受けて流れていく。そして激しく
降りしきる雨。アスファルトを弾き、叩くかのように雨水が空から
降ってくる。

夕子は自分の体が変に重たい事に気が付いた。
「寒い・・・・・・・・寒いよ・・・・・」

体が重く何をするにしても体の節々が痛い。
どんどん身体が冷えていくのが分かる。

「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・帰りたくないな・・・・・・また言われるの、
嫌だよ・・・・疲れちゃったよ・・・・」
夕子の制服はすでに雨が滴るほどに濡れ、スカートは
夕子の太ももにベッタリと張り付いている。
前髪やシャギーのかかった髪は首筋や顔に張り付き、
ポタポタと雫が落ちてきている。

そうしている内に夕子の視界がぼやけ、
滲むように見えなくなっていく。
子犬が悲しそうに鳴いているが、夕子には聞こえない。
子犬の鳴き声がしている中、夕子は倒れこむように気を失った。
倒れた夕子に雨は容赦なく降り注ぐ。

アスファルトの冷たさが気持ちよかった。
倒れこむ肢体に雨が降り注いでいく。

(・・・・・・・・・・・そっか、携帯・・・電源オフだったんだ・・・・・・
付けなくっちゃ・・・・・・・でも、良いかな・・・・・・・
どうせ・・・必要なのかも分からないんだし・・・・・・・)

夕子は少し笑うとそのまま気を失った。

夕子はふと目を覚ました。そこは自分の部屋ではない。
見知らぬ天井があるだけで、ダンボール箱や
パイプ椅子、机が置いてあるだけで何もない。
ただ分かるのは、どこかの休憩室のようなところ、としか
分からなかった。
「あれ・・・・・・・・・・ここどこ・・・・喉が痛い・・・・・」自分でも分かる。
自分の声がガラガラになっている。鼻づまりのような、
鼻にかかった声はいつもの元気ある夕子の声とは
程遠いものだった。
何枚もかけられた毛布を剥ぐとそのまま起き上がろうとする。
だが体の節々が痛いのか、すぐに布団の中に潜り込む。

自分が下着で寝ている事すら分からないのか、
起き上がってもすぐに倒れこむように寝てしまう。
しばらくして・・・・・・ノックの音がしてエプロンドレス風の女性が入ってきた。
女性は夕子と顔見知りの女子学生だった。
「あ、気がついたみたいですよ。店長〜〜〜気がついたようですう」
女性の声と共に中年の男性が入ってきた。
「ああ、気がついたか・・・・・心配したぞ・・・・・・いきなり店先で
倒れていたのだから・・・・・とっさに店の中に入れたんだが・・・・・
お前何やっていたんだ?」

「鈴蘭堂・・・・・・・・・・・・・・?」
「そうだぞ・・・・・・・・・・・さっきまで雷雲が凄かったので
一時的に店を閉めていたんだ。そしてシャッターを開けたら
いきなりお前さんが倒れているし・・・・子犬は心配そうに
私を見つめていたし・・・・」
「あの子は・・・・・・・・・・・?」
「あの子?ああ、お前さんの友達か。それならほら、お前さんの
近くにダンボールが置いてあるだろ。さっきホットミルクを飲ませたら、
すぐに眠ってしまったぞ」

首をわずかに動かして、近くにあるダンボールの空き箱を見る。
かすかに空き箱に丸まるように茶色の毛玉のような物が見える。
わずかに茶色の毛玉が上下して動いている。

「そう・・・・良かった。でも・・・・どうして・・・・・?」
夕子は、どうして拾ったのですか、と聞こうとしたが、
言わないでいた。

「まあ・・・・何があったか知らないが、少しは自分の体
労わらないとな」店長の言葉にバイトの女子学生が頷く。

「でも良かったよ。心配したんだから。
う〜ん・・・・・まだ熱あるわね」バイトの女子が
夕子の額に乗せていたタオルを交換する。
「・・・・・・・・・・・・・・・・ごめんね・・・・・・・・・・・」

そこに聡一郎が入ってくる。
「ソウ・・・・・・」
「ああ、気がついたんだね。良かった。何か食べる?」
「聡一郎、良いのか?警察か病院に送ったほうが・・・・?」
店長の言葉に聡一郎は首を振った。

「叔父さん、夕子には夕子の事情があるんだよ。それに・・・
今警察や病院沙汰になると学校に連絡がいってしまうし、
面倒な事になるから・・・・夕子もその方が良いじゃないか」
「まあ・・・・・お前がそう言うなら・・・・・」

簡単な布団の中で夕子は頷く。もしここで警察か病院沙汰に
なろう物なら学校の担任に迷惑がかかる。
自分の事を親身になって相談してくれた女性教諭にも。
ただでさえ迷惑をかけているというのに、
これ以上の迷惑をかけるわけにはいかなかった。

「ソウ・・・・・・・・どうして・・・・貴方がここに・・・・・ゲホッ、ゲホッ。
ああ・・・・・・・・・・・・体が痛い・・・・・・」熱っぽい咳をする夕子。
「ほら、静かにして。それにそんなになるまでどうして外にいたんだ?
それと携帯・・・水浸しになっていたよ。これ、修理利くかどうか
分からないけど、治ったら行くと良いよ」近くの机に
携帯を置く。
「あり・・・・がとう・・・ね・・・・・・」
「それは良いから、静かにして」聡一郎はタオルを交換すると
また額に乗せる。
「風邪薬・・・・ある・・・・?」
「その状態で飲んでも良いけど、少しお腹に
何か入れて置いた方が良いよ。空腹で飲むと
内臓を痛めるよ。体が弱っている状態じゃ
薬のせいで逆効果になるだけだよ」
「・・・・・・・・・どうして・・・・・」
「だって風邪薬というのは簡単な麻薬だよ。それでも
胃壁ぐらいはボロボロにしてしまうし、
じゃんじゃん汗を掻いて熱を下げてから、食べ物や
薬を飲んだほうがいいんだよ。だから時々胃の弱い人が
いきなり風邪薬を飲んで体調を逆に崩してしまった、なんて話が
あるぐらいだからね。だから人によっては牛乳やクッキーと一緒に
食べてから飲む人がいるんだよ。今お粥かベークド・アップル
を作ってあげるよ」

「親御さんにも連絡しておいたからしばらくしたら来ると思うよ」
「ありがとう・・・・・・・・・・・ソウ・・・・・・・」
「うん・・・何?」
「しばらくココにいて良い?」
「良いよ。親御さんも車を飛ばしてくるだろうし、それまでなら
いてあげるよ。ああ、そうだ、ベークドアップル食べる?」
「ベークド・・・・アップル・・・?」
「りんごをシナモンなどの香辛料で味付けして、オーブンで
一気に焼き上げた物だよ。お腹に優しいし」

「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・食べる・・・・・よ」
夕子は起き上がろうとしたが、体が重いのかまだ動けない。
ソウが近づこうとした時、バイトの女子生徒がソウとおじさんを
追い出した。
「ほらほら・・・・・お二人さんはそのベークドアップル作ってきて
下さい!夕子ちゃんの体拭かなきゃ。汗沢山出ているでしょうし。
それに夕子ちゃんは下着なんですから」
「覗きは厳禁だろうね」
「当たり前です、オーナー!それと、他のバイト学生を
こっちにまわして下さい!」
「どうして?」
「男子禁制!ドアのそばに立っていてもらって交代で
夕子ちゃんをガードします!」
「叔父さん・・・・よっぽど信用されていないんですね」
「聡一郎さんはベークド・アップルを作って来て下さい」バイトの
学生がニコニコ笑う。
「うん、作ってくるよ」聡一郎が行こうとした時、バイトの女子学生が
ニコニコ近づいてそっと耳打ちする。

(頑張って下さいね。夕子ちゃんほど良い子っていないんですから。
しっかりしておかないと、夕子ちゃん他の人に獲られちゃいますよ)
(・・・・・・・・・・・・・・・・・)無言のまま部屋に向かう聡一郎。

聡一郎はそのまま厨房に行くとオーブンを開けて
何かを作り始めた。木の箱に入っている林檎を数個取り出すと
それにシナモンを振りかけて、色々と作業した後、オーブンに入れる。
「へーそうやって作るんだ」後ろで見ていた数人のバイト生が見つめている。
「うん、そうだよ。このベークドアップルは外国じゃ子供用のお菓子としても、
また風邪を引いたときによく効くんだよ。林檎は医者いらずって、
言うのもそこからきているんだ。それに適度な甘さというのが
胃に優しいからね」

「できた」しばらくして聡一郎はシナモンを振りかけた林檎を
可愛らしいお皿に載せて運んでいく。
彼が出て行った後ときめき高校とひびきの高校の両校のバイト学生達が
色々と話し始めた。
それは他愛も無い四方山話であった。
そう詩織が来るまでは・・・・。

「ねえ・・・・夕子ちゃんってもしかしてソウとデキているじゃないかな・・」
「まさかあ・・・・だってあの夕子だぜ。あそこまで夕子が純情なわけないじゃん」
「そうとは思えないんだけど。もしかしたら・・・夕子はソウの事好きなんじゃ・・・」
「お、おい。そうだとしたら詩織ちゃんの立場無いじゃん。どうするんだよ。オレ
詩織ちゃんのファンなのになあ・・・・ソウが詩織を選ぶだろうと思って
引いたのに・・・・」
「詩織ちゃんが聞いたら・・・まずいぜ。いくらなんでも」

そこに・・・・・・
「こんにちは〜」聞きなれた声がして皆後ろを振り返った。
そこにいたのは詩織だった。ボストンバッグを抱え、息を切らしながら
ニコニコと笑っている。手にしていた傘から雫がポタポタ垂れている。
「凄かった〜あの雷雨。あんなに降るなんて思わなかった」
「あ、ああ・・・・・」一人のバイトが気まずそうに答える。
「あれ?皆どうしたの?」
詩織は自分に向けられた視線を察して驚いている。

「どうしたの?ねえ、皆?」
「きょ、今日は・・・どうしたの?」バイトの女子学生が気まずそうに話しかけた。
「えっ」
「だって今日はオフだって。どうしちゃったの?さっきメールで
そう言っていたじゃない?」
バイトの女子学生の言葉に詩織は何か思いつめた表情をして答えた。

「・・・・・・・・・・・・・・・・・・何となく・・・出たくなっただけですよ」

その言葉に皆黙ってしまう。嫌な雰囲気が包む。
「皆さんどうしてここにいるんですか?何かあったのですか?
休憩時間でしたっけ?」
「い、いや・・・何でもない。ちょっとね・・」
「ちょっとね?どうかしましたか?」詩織は首を傾げるかさすがに誰も
言えない。
「それはそうと早く着替えたいからそこ退いてもらえませんか?」
「あ、ああ・・・ごめん」数人のバイト学生の後ろに更衣室に繋がるドアがある。

数人のバイト生が退くとそのまま詩織は更衣室へ走っていく。
すれ違った数人のバイト達が詩織を訝しげな表情で見つめている。
不審に思った詩織が話しかけようとするとバイト仲間の一人は
言葉を捜して、いや彼女を傷つけないように
言葉を選んで話している。それでも笑顔の詩織が近づこうとすると
気まずそうな挨拶をして場所を離れる。

あのマスターでさえも詩織を見ては何かいけないモノが、そこにいるかのような
表情を浮べている。それでも笑顔を出そうとするのだが顔が引きつっているだけに
なってしまう。
「藤崎さん・・・それじゃあね着替えだけど・・・別の部屋を用意するから
そこで着替えてくれる?」
「どうしたんです?」
「いや・・・何でもない。ソウなら・・・ソウなら・・・」マスターは何か言いかけたが
言えない。今何かを言ってしまったら運命の扉が開いてしまいそうで、
今まで築き上げてきた関係が壊れてしまいそうで嫌だった。
「ソウ?聡一郎君がどうかしたのですか?それに更衣室には入れるんでしょう?
どうしたのですか?どうして入っちゃいけないんですか?何かあったのですか?」
「い、いや・・・・・そうじゃなくて・・・だな・・・そのつまり・・・・」

「詩織ちゃん・・・どうしたの?今日はオフだって」ドアの前に立っていた
女子学生がそう言って詩織を押しとどめようとする。
「どいて」
「詩織ちゃん・・・ちょっと待って!今病人が・・・・」
「どうして邪魔をするの?」
「だから・・・マスターが言ったでしょ、他を使ってって。お願いだから
他の場所に・・・・」
「誰がどこを使おうが関係ないじゃない!退いてよ!」
悲鳴のような声を出した詩織に女子学生は思わず後ずさる。
そのまま言葉を濁すマスターと女子学生に首を傾げながら
詩織は更衣室と書かれたドアの前に立つ。
そして金属のドアノブに手を伸ばし、ゆっくりとまわす。
そこで見た光景は・・・・。

(続く)



戻る